2019年3月16日

代表history 「家づくりへの思い」

IMG_20220316_0001.jpg【白川家の長男誕生】

昭和50年5月8日、白川家の長男として誕生しました。
父、母、3歳上の姉、祖父の5人家族です。
父は大工、母は贈答の仕事に就いていました。
祖父は、近所から「何でもできる人」として有名でした。
父と一緒に大工仕事をしたり、家の台所に並ぶ野菜を作ったり、
正月前にはしめ縄づくり、祭りの前には菊を展示会に出品したりもしていました。
ちいさな私は、「すごい人だなあ」「かっこいいなあ」と、尊敬の目で見ていました。
口数は少ないのですが、私と姉がふざけていても、決して怒らず、
にこにこしながら見てくれているのがうれしかったと記憶しています。

バスケットボール.jpg【小学生時代】

小学生時代は、6年間学級委員長をしていました。
特に勉強やスポーツができたわけではないのですが、人望が厚かったのでしょうか(笑)
スポーツは、バスケットボールとソフトボールをしていました。
みんなで一つになる瞬間が楽しくて、チームのスポーツが好きだったのです。
家では、父の仕事仲間の職人さん達が、毎日のように晩ごはんのテーブルを囲んでいました。
もちろんお酒を飲んでいます。
それが嫌な日もありましたが、職人さんたちは私を「もんちゃん(父の呼び名)の跡取り」として、
かわいがってくれました。
今思えば、母は大変だったと思います。
毎晩のように家族分以外の食事やお酒を用意していたのですから。
自分の現在の生活からは考えられません。
そんなことをしたら、家庭崩壊します(笑)
でも、母は嫌な顔も見せずにもてなしていました。

【大工さんへの憧れ】

そんな父ですが、大工としてはよく働いていました。
大きな工務店の手間請けなどはしないで、営業もせず、今でいう口コミだけで仕事を請け負っていました。
母の対応もよかったのでしょう。
贈答の仕事に就いていたのせいか、もともとの性格なのか、話し好き、世話好きで接客スキルがとても高いのです。
そのため、施主様も安心して仕事を任せてくれたのだと思います。
そんな二人を見ていて、「自分も大工になって、人に喜んでもらえる家づくりに携わりたい」と考えるようになりました。
卒業文集には「もんちゃん(父)のあとつぎ」という題で作文を書きました。
なんと良い息子でしょうか!

【中学・高校時代】

中学になり、思春期が始まると、親父のことをなんとなくバカにしていたように思いいます。
なんで汚い、きつい仕事をしているんだろう、もっと楽にお金がもらえる仕事もあるのに...と思っていました。
中学に入学早々、足を骨折して、部活に入りそびれた私は、日曜日には父の現場に行き、仕事の手伝いをしていました。
夏休みや冬休みももちろん現場へ。
このころは「絶対大工にはなるものか」と思っていました。
その後、工業高校に進学。反抗期の影響か、電子機械科を選びました。
父は何も言わず、応援してくれていましたが、本当は建築科を選んでほしかったのかもしれません。

【モヤモヤした気持ちで社会人へ】

高校を無事卒業し、就職です。機械の分野の地元企業に入社しました。
しかし、入社3日後に、岡山配属と決まりました。
地元企業に就職して、内心ではこれから親孝行ができると思っていたのに、
「これが社会の厳しさか...」と愕然としました。
「本当にこの会社に就職していいのか」「本当は『大工になる夢』に未練があるんじゃないか」ともやもやしていました。
会社では、自動車部品をつくる部門に配属され、「3k」と言われる仕事をこなしていました。
仕事はきつかったですが、すごく大事にしてもらえました。
が、朝8:00~深夜12:00は当たり前の生活で、しんどかったです。
それでも、「3年間は続ける」という気持ちで頑張りました。

【地元に帰るきっかけ】

そうこうしているうちに7年が過ぎていました。
この頃になると、会社からも信頼され、役職にならないか、と言われるようになりました。
しかし、役職に就くとなると地元に帰れなくなると思い、悩んでいました。
ある時、祖父の法事があり、香川に帰ることになりました。
父の兄弟であるおじさん達とお酒をにみながら話をしていて言われたのが、「わしらの帰ってくる家を守ってほしい」
ということでした。
その時は勝手なことを言うとも思いましたが、自分が迷っていることを、表情などから感じていて、
そう言ってくれたのかもしれません。
その翌日父、と母に、会社に残って役職に就くか、地元に戻った方がいいのかを尋ねました。
二人とも「今までよく頑張った、でもそばにおってほしい」と言われ、決心がつきました。
私はなんでもすぐに行動する質なので、すぐに岡山に戻り、会社の上司に役職を断り、退職すると告げました。
急な話だったので、年度替わりを持って退職することになりました。

【大工への第一歩】

退職した私は地元に戻りました。
地元に戻る=大工になるということです。
その時27歳だったので、職人になるには遅いスタートです。周りからもそういわれていましたが、
「見返したる!」という決心で仕事を覚えました。
父の弟子になるのではなく、小さいころからお世話になっていた父の大工仲間にお願いして、
弟子入りさせてもらいました。
その時は親方・兄弟子2人・自分の4人体制で仕事をしていました。
その他にもいろいろな現場に応援に行かせてもらい、一つのやり方や考え方だけではなく、
いろんなやり方や考え方があることを知り、仕事の楽しさややりがいを実感しました。

結婚式.JPG【ひとり立ち】

それから5年たち、この頃になると一人で現場を任されるようになってきました。
早さではなく、丁寧に仕事をすることを心がけました。
ハウスメーカーの下請けの仕事もするようになり、ハウスメーカーの監督さんにも気に入ってもらえ、
個人事業主としてスタートを切りました。
2009年の6月に結婚し、その後一男一女に恵まれます。
ハウスメーカーの下請けの仕事は途切れることなくありましたが、
朝早くから夜遅くまでの仕事で、妻には負担をかけたと思います。

【考え方の変化】

2011年3月11日、東日本大震災がありました。
私は仕事中でしたが、香川も揺れました。
ラジオをかけていたので、情報が入っていましたが、震源地が東北と知って驚きました。
香川とはかなり離れているのに揺れたということは相当大きな地震だ、とすぐにわかりました。
ラジオからは悲惨なニュースばかり聞こえてきます。
不安になり、すぐに家に帰りました。
それからも深刻な被害が広い範囲で起きているとニュースが知らせています。
そして1か月たったころ、元請けのハウスメーカーから、宮城県南三陸町に仮設住宅を建てに行
ってほしいと依頼がありました。
自分みたいな人間でも役に立つならぜひ行きたいと思い、すぐに妻と相談しました。
当時、1歳になったばかりの息子を抱えていた妻も、不安だったでしょうが、宮城県に行くことを応援してくれました。
私は第一便での出発でした。2週間の出張です。
高速道路はデコボコで移動にも時間がかかります。
仙台平野ががれきで埋まっていて、海も見えない、こんなところまで津波が来たのか、と驚きました。
そして現場となる南三陸町は映画で見る戦争の跡地のような状態です。
あちこちに車が横倒しになっており、自衛隊の人が遺体を運んでいました。
その光景を写真に撮っている人もいましたが、私にはできませんでした。
ただ、生きていく中でもこの光景は忘れることのないよう、しっかり目に焼き付けておこうと思ったのです。
2週間しかいなかったのですが、仮設住宅を建てた後、帰るときには
避難している人たちからは涙を流しながら「ありがとう」と言って見送ってもらいました。
そこで地震の怖さ、命の大切さ、家族の絆、住宅の大切さを知り、それからの仕事は大きく変わりました。
多くの人にとって、家づくりは、人生で1度の大きな決断です。その一度を、小さなわが社を選んでくださったご縁を大事に、お客様に喜んでもらえるよう、誠実な仕事をします。また、末永いおつきあいをさせてもらい、アフターフォローも誠実に行います。

  • 2019年3月

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